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野外ジャズ・フェスの草分けは、ジャズの歴史講座から始まった

THE PAGE - 1月13日(土) 17時10分

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(THE PAGE)

 ジャズ・フェスティバルといえば、今ではすっかり夏の風物詩として定着しています。カナダのモントリオール・ジャズ・フェスティバルをはじめ、世界の各地で朝から晩まで繰り広げられるパーティーのような音楽の祭典は出演者も観客も熱狂させています。

 フェスを語る上で外せないのが、野外フェスの草分けとなったニューポート・ジャズ・フェスティバルだ。企業家の妻の思い付きで始まった同フェスは、どのように発展していったのでしょうか? 伝説として語られる名演が記録されている映画や事件を振り返りながら、その名を冠するフェスの現在について、ジャズ評論家の青木和富さんが解説します。

フェス初回は簡単なジャズの歴史の講演で始まった

 調べてみたら、ニューポートというタバコは、今でもあるようで、メンソール・タバコの代表的な銘柄として愛好者がいるようだ。日本ではなかなか簡単に入手できないようだが、米軍基地では売られているという。さて、このニューポートというタバコのオーナーがニューポート・ジャズ・フェスティバルの創始者なのである。当時大変な資産家だったようで、妻のイレーヌ・ロリアードの思い付きのようなこの計画に、資金的な保証を買って出た。言ってみれば「上流社会」のお遊びのような計画である。ただ、イレーヌはピアノを弾いたし、若いころ戦地でジャム・セッションを楽しむぐらいの経験はあったようだ。彼女は、1938年のカーネギー・ホールのジャズ・コンサートの熱狂的な光景が、このニューポートのステージでも生まれたらどんなに素晴らしいだろうと思い描いていたらしい。

 問題は、このニューポートの上流社会は、ジャズへの理解がほとんどないことで、「黒人の音楽をやるなんて」といった相当の抵抗があったようだ。1950年代初頭の状況を考えると、これは何ら不思議ではない。そんなわけで、1954年の第1回目のオープニングには、白人人気オーケストラのスタン・ケントンによる簡単なジャズの歴史の講演が用意された。原稿は評論家のナット・ヘントフが書き、それを下敷きにケントンがジョークを交えながらの講演で、評判もよかった。むろん、これが奏功したというわけではないが、フェスティバルは予想に反して大成功を収めた。当時のニューポートの人口は約1万人、ホテルが4軒、モーテルが6軒という街に、1万を超える聴衆が集まったのだ。当然、宿舎は満杯で、あとは車の中、野宿ということになるが、これが後年、この名フェスティバルの終焉の要因となる。

 余談だが、音楽ファンというものは、どうもこういう初めてのことに、引き寄せられるようだ。日本の話だが、1969年の「中津川フォークジャンボリー」、1974年に福島県郡山での日本での初めての野外ロック・フェス、「ワンステップ・フェスティバル」。ともに主催者の予想を超えるファンが集まり(後者は期間中7万人)、いずれも伝説的なイベントとなったが、同時にそれ故に簡単に継続が不能になってしまったようだ。そう考えると、いつの間にかファンがニューポートに集結したのも同じではないかと思えて仕方ない。そして、事態はどんどん進みコントロールが不能になる。

暴動騒ぎで終焉を迎えたのち再開 「創始者はどっち?」でのいざこざも

 1960年、軍隊が出動するような騒ぎの事件が起きた。フェスティバルは停止となり、その後当初からの相談役マネジャーだったジョージ・ウェインの主催で復活するが、これも1970年に同じような若者たちの暴動騒ぎが起き、以後は場所をニューヨークに移しての開催となる。むろん、これで野外フェスの歴史は一旦終わることになる(現在は、ウェインの手を離れ、新たな復活を遂げているが……)。

 こうした一連の動きで、実質的な実権はウェインが握り、いつの間にかこの名フェスティバルの創始者もウェインということにもなってしまった。それがイレーヌには我慢がならず、訴訟にも発展する。ちなみに、実はロリアード夫妻は、1958年に離婚調停が始まっていて、彼女の立場が弱くなっていたことも騒動の原因だろう。とまれ、以後ジョージ・ウェインは、ニューポートという大看板を手にし、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾」を始め、世界各地でジャズ・イベントを成功させ、この世界に君臨する。まあこれはファンにはどうでもいい話ではあるが……。

 ニューポート・ジャズ・フェスティバルの最大の功績は、この野外コンサートにある。1958年にはもう一つの名野外ジャズ・フェスが西海岸のモンタレーで発足、以来野外フェスが世界中に広がっていく。日本では1970年代以後に全国津々浦々といっていい位に、たくさんのジャズ・フェスが開かれ、夏の風物詩とまで言われたこともあった。

記録映画『真夏の夜のジャズ』に見るニューポート・ジャズ・フェスの光と影

 野外フェスの楽しさが普及した一因に1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの記録映画『真夏の夜のジャズ』もあるかもしれない。これもイレーヌの発案で、ファッション・カメラマンのバート・スタインに依頼したのも、彼女がファッションに強い人だったからだ。結果、その映像はファッション誌のグラビアのように美しい作品になった。もっともスタインにとって、これが初めての映像作品なので、初日は緊張して寝込んでしまったというエピソードもあるが、望遠レンズやフォーカスの使い方は、やはり初心者とは思えない。そして、何よりもアニタ・オデイ、ジミー・ジェフリー、セロニアス・モンク、ルイ・アームストロング、エリック・ドルフィー、マヘリア・ジャクソンといった名プレイヤーの盛時の姿は感動ものだ。

 ところで、この映像のもうひとつの注目点は、実は観客席にある。この当時の東海岸のトラッドなリゾート・ファッションが美しい映像で記録されている。そして、もうひとつ重要なことは、ここには黒人がほとんど映ってないということだ。あらためて確認しておくと、ここは東海岸有数の高級避暑地であり、この街の社交界は、鼻持ちならない人種が支配していた。だから、ニューポートに乗り込んだヴァーヴ・レーベルのノーマン・グランツが盛大なパーティを開き、「社交界というのが嫌いなんだ、これは俺のパーティーだから」と言って、ロリアード夫妻のみ招待しないというどこか子供じみた嫌がらせを慣行したり、チャーリー・ミンガスらは、これは白人優先のフェスだと言って、ニューポートの反逆児という反フェスティバルを同地で開いたりしている。むろん、こうしたことはこのフェスティバルが全米で放送され、全世界で話題になるほど大成功を収めたからである。

 人種差別の大きな運動がこの時代から始まり、こうしたニューポートの物語の背後にはそうした時代の変化がうっすらと反映していると言ってもいいかもしない。最後の余談。歴史を紐解くと、実はその昔、このニューポートは、アフリカからの黒人奴隷市場で繁栄した街であった。三角貿易の基地の街だったのである。

(文・青木和富)

 

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